神崎ゆきの裏日記

SNSの炎上や人間関係トラブルの記録とか

トレーサビリティの欠如と謝罪の仕方

こんにちは、神崎ゆきです。

今回は、私と両方とも交流がある、とつげき東北さんオリちゃんについて。この2人の間に激しい対立が起きていることについて、触れたいと思います。

三者である私が、苦言を呈す記事です。

この件に関して、私のところに「神崎さんはとつげき東北に注意しないのか」とDM等を複数いただきました。しかし、私が個人間のトラブルに介入すると、どうしてもこじれてしまうので、今回の件を最後に「社会問題には言及するが、個人間のトラブルには関わらない」というスタンスを取ります。

個人間のトラブルに口を挟むには、私はアカウントの規模が大きくなり過ぎました。

まず初めにこのことを、ご承知おきいただけると幸いです。今回の件に限っては、私も思う所がありますので、言及をさせていただく次第です。

なお、この記事を見る方の立場にもよるかもしれませんが、おそらくは私のスタンスが「とつげき東北さん寄り」になっているであろうことを、あらかじめ書かせていただきます。

彼のことを批判する内容の記事ではありますが、それは同時に「彼に救いの手を差し伸べること」でもあります。そのため、この記事を書くことで私に対して生じる批判に関しては、甘んじて受け入れるものとします。

また、この記事で私が提言したことをとつげき東北さんが受け入れたとしても「神崎の言うことなら聞くのか」と批判を受けるでしょう。受け入れなかったとしたら現状維持となるので、やはり批判を受けるだろうと思います。これらの批判も、彼は甘んじて受け入れるべきものと存じます。

以上を踏まえて、ご覧ください。

よろしくお願い申し上げます。

1. 経緯

まずは、私が把握している経緯を書いていきます。

オリちゃんは2021年10月29日に、このような記事を書いて公開していました。そして、Twitterの固定ツイートに設定していた。

note.com

この固定ツイートに対して、2022年5月15日。

とつげき東北さんがこのように突っ込みました。

このリプライの約1ヶ月後。2022年6月13日に、オリちゃんはスクリーンショットを用いて反論しました。

これに対して、とつげき東北さんはこのようにリプライ。

オリちゃんはスクリーンショットを用いて、反論。

ここで、とつげき東北さんは以下のnoteを公開。

note.com

このnoteに、オリちゃんはスクリーンショットで反論。

その後、アーマーカンタスさんという方がこのように意見を言います。

その後、とつげき東北さんは記事に追記。そして、このようなツイートを行いました。

アーマーカンタスさんのツイートに対して、オリちゃんはこのようにリプライします。そのリプライに対して、とつげき東北さんはこのように伝えます。

その後、オリちゃんはこのように苦言を呈します。

その後、とつげき東北さんとフェミトーさんの間でこのようなやり取りが為されます。

https://twitter.com/oriii_chance/status/1537437034042003462?s=20&t=_FORcJgV7GXUMut1dsetQw

その後、このような流れになります。

これに対して、とつげき東北さんの返答。

以上が経緯となります。

2. とつげき東北さんへの指摘

まずは、とつげき東北さんの問題点を指摘します。

とつげき東北さんの書かれたnoteでは、現時点で「オリちゃん」という固有名詞ではなく、「Nさん」に変更されています。

そして、《本文中に出てくる「Nさん」は、私の中で典型的な「表現選択派」のステレオタイプであり実在する何人かの人物に共通する特徴を取り上げたつもりだが、一部偏った見解がある可能性も残ることを付記する》と注釈が書かれている。

だから、私がここで「Nさん = オリちゃん」と結びつけて論じること自体が、とつげき東北さんの「反省」「改善」を無碍にすることかもしれません。それでも、そうしないと私がこれから論じる内容に不具合が生じるので、やむを得ずに「Nさん = オリちゃん」を結びつけて論じます。

その上で。

まず、今回の騒動において、とつげき東北さんの問題点は「トレーサビリティが甘い」ということです。違う言い方をするなら「オリちゃんの主張をもっと正確に引用すべきだった」となります。

例えば、当該noteには次のような文章が出てきます。

そんな中、「表現選択派」の「Nさん」との対話で、私の丁寧な説明をかなり悪意を以て軽んじられたうっぷん晴らしついでに、原理を聞いたのが5月10日あたりである。

胸の大きな人を心地よくさせるためだけに「表現の自由」があるのではない|とつげき東北|note より引用|2022年6月15日)

ここで「私の丁寧な説明をかなり悪意を以て軽んじられた」とは、具体的に何があったのか。リンクも何もないので、それを追うことができない。

つまり、第三者から見て「本当にとつげき東北さんの説明が丁寧であったのか」「Nさんは本当に悪意を以て軽んじていたのか」の判断ができません。

また、元プロゲーマーたぬかな選手の発言について、とつげき東北さんは「Nさん」の主張を以下のようにまとめています。

その方は、2次元のイラスト等については「表現を守るべき」と強く主張しているものの、元プロゲーマー(たぬかな選手)の表現「身長170cm以下の男に人権はない(要旨)」に対しては「表現すべきではない」旨で反対していたので、3行目は「憲法」「法令」に準じないものとした。

(中略)

もちろん個人の問題として「太っていても生きやすい社会」を望むことを止めたりはしない。しかし「Nさん」は、先に述べたとおり、「たぬかな選手」の選手生命を絶つ方向の動きに賛同したし、「たぬかな選手」の表現の自由を認めようとしなかった。実際にたぬかな選手の人権が損なわれた後、謝罪や後悔の念を記していない(私が観測できた限り)。

胸の大きな人を心地よくさせるためだけに「表現の自由」があるのではない|とつげき東北|note より引用|2022年6月15日)

この点も、トレーサビリティがない。

Nさんが本当に「選手生命を絶つ方向の動きに賛同した」のか、たぬかな選手の「表現の自由を認めようとしなかった」のか、確認する方法がありません。

「私が観測できた限り」と曖昧に濁さず、具体的に「観測したもの」を第三者が確認できる形で提示すべきです。

次に。

とつげき東北さんは、Twitterの発言において「情報不足」に過ぎます。

はっきり言って、おそらく最も誠実かつ公平中立な人が読んだとしても、あまりにも情報不足であり、喧嘩腰の表現で反発を買うこともあいまって、論旨を読み取れるはずがないものと思います。

私は、まだ半年程度の付き合いではありますが、とつげき東北さんの友人であることから彼に甘い自覚があります。しかし、それを差し引いても限度がある。

とつげき東北さんは、オリちゃんに対して行った最初の質問に対して、次のように仰っている。

私の質問で
パワハラをする人も生きやすい世界にしたいと思わないのはどうしてか、理屈を」
聞いたのは、「何を基準として」「どのような一貫性をもって」自らの好みを正当化し、他人の権利を侵害しようとしているのかを聞きたかったからだ。
断るまでもないことだが、「パワハラをする人も生きやすい世界にしたい」と私が思っているわけではない。私は「憲法」や「法令」に準拠して考えるのだから、表に記したように、
パワハラは(主として暴行や脅迫等に該当するような)犯罪である」
ことから、そのような行動は制限されるべきだと判断する。いうまでもなく、現在「パワハラをする人」が、「パワハラをせずに生きていける世界」になれば、なおよい。

果たして、「Nさん」から、一貫した原理と返答は返ってくるだろうか――。

その結果は、以下のようなものだった。

「体質的に仕方がない特徴や、それで受ける被害の当事者として発言したのです。『パワハラする人も生きやすい世界にしたいと思わない理屈を知りたい』という意見と並べないでほしい」

私が訪ねたのは、「なぜパワハラする人の生きやすい世界を求めないのか」に対する、ピンポイントな解ではない。

「Nさんの判断では、胸が大きい人が生きやすい世界を望んでいる」

「しかし同時に、たぬかな選手などによる自由で『格闘技界で楽しく表現しあえる』世界は望んでいない」

「だとすると、あなたが表現を『選ぶ』にあたって、何が原理にあり、どういう一貫性で『善い、悪い』を決めているのか。私自身も『パワハラの人』の人権は当然制限されるべきだと思うが、私はそれをキチンと説明するための原理と一貫性、それから羞恥心と知的誠実性を保有している。あなたにはそれが見受けられない。原理と一貫性を説明せよ」

という注文だった。
思った通り、何の答えも用意されていなかった。

まず、第一に。

「とつげき東北さんのツイートから初見でそこまで読み取るのは無理があるだろう」と思います。

これは「憲法や法令の知識がなければ読み取れない」という類のものではなく「とつげき東北さんという人物とその思考を知らなければ読み取れない」という類のものです。あまりに「とつげき東北さん自身の中にある文脈」に依存し過ぎています。これでは、ほとんど誰にも伝わりません。

それを、まだ関係性を築いていないオリちゃんにとつげき東北さんが投げかけるのは、オリちゃんの言葉を借りるなら「初手から喧嘩腰の構ってちゃんムーブ」であり、ただの「甘え」であると思います。

この点は、私はサンサーラ・ゴンさんの意見に同意します。

そして、第二に。

そもそも前提として、とつげき東北さん自身が「私が返した質問がいささか意地悪なこともわかっている」と称する質問に対して、オリちゃんは「真正面から答える義務も義理もない」のです。粗雑な対応になっても仕方ないでしょう。

そうやって粗雑な対応を煽って、それを拾って主張を展開するのも、1つの議論のやり方であることは認めます。そして、私はとつげき東北さんが「論敵とバチバチにやり合うことで出世してきた人」であることも知っている。

……しかしながら。

「あんた、立派な肩書と十分な知識と能力があるんだろ。何をいつまでも小物のようなしょっぱいムーブしてんだ。シャンとしろ」

このように、私は思いました。

3. とつげき東北さんに求めるもの

ここからは、とつげき東北さんの「事後対応の稚拙さ」について。

しかし、その前に触れておくことがあります。それは「TLを眺めていて、とつげき東北さんが何も反省していない雰囲気になっているが、実際のやり取りはそうではないのではないか」という点です。

とつげき東北さんは、アーマーカンタスさんからの指摘で「やり玉に挙げてしまう形になったことについて、弁明と謝罪を入れました。申し訳ありませんでした」「特定の方を全面に出すことは非常に不適切であると反省した」と言っています。

また、オリちゃんに対して「 何か特段の改善点(Tweet削除等)ありましたらお申しつけください」と申し出ています。

フェミトーさんとのやり取りでは「あの記事が特定個人のことを指していたことは本当に申し訳なく思っていますし、私の失敗だと感じています」と言っています。

これらを踏まえて「とつげき東北さんが反省も謝罪もしていない」のは、違うのではないかと思います。この点は、Twitter上でも事実関係を把握されていないのではないかと見受けられる意見を、非常に多く見かけます。

その上で。

それでも「とつげき東北さんが何も反省していない雰囲気になっている」のは、とつげき東北さんの「謝罪の仕方」が適切ではなかったことが原因ではないでしょうか。

具体的には、とつげき東北さんの表明の仕方も文章も「何かのついで」になっており、中心的な部分が「オリちゃんへの謝罪」として取り扱われていません。

謝罪をするのであれば「① 何が悪かったのか」「② その過ちが起きた原因は何か」「③ 今後どのように改善するのか」を、誠実に書くのが基本です。これらが欠けているならば「反省も謝罪もしていない」と見なされたとしても、致し方がないでしょう。

何かのついでに片手間で謝罪を済ませないで下さい。

なお、謝罪を表明したとして、オリちゃんが許すかどうかは別問題となります。これはオリちゃんのためというよりも、あくまで「私が自分の友人であるとつげき東北さんに求めるケジメ」となります。

謝罪くらい、きちんとできる大人であって下さい。

また、それはそれとして「記事を削除するべきではない」とも思います。

理由は2つあります。

まず1つは、オリちゃん自身が「それを後になって訂正や弁明はもう手遅れでいらないから。ブロックして関わりたくはない」と言っており、記事の削除を求めているわけではないからです。

オリちゃんが希望していない以上、記事を削除しても誰も得るものがなく、何も問題が解決しないものと考えます。

(2022年6月17日23時25分追記:この部分に関しては「記事の削除を希望していないわけではない」とのことです。事実確認が不足していたことを、お詫び申し上げます)

もう1つは、とつげき東北さんの主張は、「オリちゃんへの批判」としては的外れですが、あくまで「主張そのもの」だけで捉えるなら、割と妥当なことを言っているからです。

例えば、以下の人権に関する「原理原則」について。

原理原則のおさらい

日本国憲法における「人権」(表現を行う権利や、表現を享受する権利としての「知る権利」など)は、「公共の自由(他人の人権)」を侵害しない限り、無制限に与えられるものである。

(中略)

よくある誤解として、これを、
「社会の秩序や平穏など、公共的な価値のために、個人の行動は制限される」
「多数の人の利益になる場合には、少数の人はある程度我慢しなければならない」
といったように解釈している方がいる。
しかしこれは誤りだ。
憲法13条は、
「社会的な価値(大勢にとって居心地が良いことや会社が儲かること)」
などではなく、
「個人の権利こそが最大限に求められなければならない」
と謳っているのである。
決して、大多数が「嫌味だなあ」と感じる言葉を誰かが言ったところで、その発言を止める権利は、一般に存在しない。

ただし、特定個人が無限に自分の「権利」を主張してしまうと、当然ながら「他の個人」の「人権」と衝突してしまう場合がある。
こういった場合に――こういった場合にのみ、個人の人権は制限され得る。個人の人権を制限できるものは、別の個人の人権だけだ。
例えば何らかの刑事事件の容疑者の「実名報道」は、容疑者のプライバシー権や財産権、名誉等を侵害している。私個人としては有罪判決も出ていないのにとんでもないことだと思うが、重大な犯罪については、大勢の「知る権利(人権)」と衝突するとも考えられており、このあたりはいかにも「文系的に」処理され、時々はマスメディア側に賠償が命じられたり、命じられなかったりする(冤罪によって人生が終わるかわいそうな被害者もいる)。

このように、人権と人権の衝突を調整することを、憲法では「公共の福祉」と呼ぶ。
まず、これを抑えているか、ここに立ち戻って事態をとらえることが可能か、というところが1点、非常に重要な観点である。

胸の大きな人を心地よくさせるためだけに「表現の自由」があるのではない|とつげき東北|note より引用)

胸の大きな人を心地よくさせるためだけに「表現の自由」があるのではない|とつげき東北|note

この内容は、いわゆる表現の自由に対する原理主義者」でなくとも、広く色んな人に考えて欲しいことだと、私は思います。

繰り返しますが、とつげき東北さんの主張は「オリちゃんへの批判」としては、トンチンカンであり不適切なものです。

ですが、「主張そのもの」だけで考えると示唆的なことを言っています。

表現、あるいは人権に関して何らかの形で言及するなら、とつげき東北さんの主張に賛同するか否かはさておいて(実際、私のスタンスはとつげき東北さんとは随分と異なります)それでも「人権」「公共の福祉」「決して避けては通れない内容」です。

togetter.com

これらのことから、私は記事そのものは残すべきと考えます。

しかし、とつげき東北さんの主張にあたって、記事の「Nさん騒動」と書かれている項目は、必ずしもその論旨に必要不可欠な部分ではありません。

もちろん「必要ではないから削除しろ」という主張を全てのケースにおいて認めることは、表現の萎縮を伴うので避けるべきではありますが、今回に限ってはとつげき東北さん自身が非を認めているので、部分的に削除・修正を図ることも視野に入れるべきと存じます。

オリちゃんに関する部分を「Nさん」に変えたとしても、公開した時点でSNSの読者の認識として「オリちゃん」に既に結びついており、noteで修正を図ったとしても、Twitterの各所には「Nさん = オリちゃん」を結びつける要素が残っています。それは「とつげき東北さんのツイートのみ」に限りません。

もし「現在もオリちゃん自身が望むのであれば」ではありますが、「Nさん」に関する部分は大幅に修正・削除するべきだと思います。

(なお、オリちゃん自身の希望がないにも関わらず、自身の判断だけで部分的な修正・削除をするのは、別のトラブルの原因となり得るため、避けるべきと存じます)

以上です。

三者として余計な口出しをしたこと、誠に失礼しました。

 

【追記】

以下、とつげき東北さんの謝罪文およびオリちゃんとのやり取りについて掲載します。

以上です。