神崎ゆきの裏日記

SNSの炎上や人間関係トラブルの記録とか

【性的消費とは】寛容のパラドックスとインターネットスラング

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こんにちは、神崎ゆきです。

今回は「柊万知さん」という方からいくつかご指摘をいただきましたので、お答えしようと思います。

1. 寛容のパラドックスについて

以前、私は「はるかかなたさん」という方の『寛容のパラドックス~寛容さは不寛容さとどのように向き合うべきか?|はるかかなた』というnoteをシェアしました。

note.com

これについて、柊万知さんという方が引用RTでこのように仰っていました。

正直に言えば「記事をシェアするときのコメントでそんな厳密なことを言われても……」という気持ちはあります。

私はなるべく、記事のタイトルや作者名やURLも含めてツイートするようにしているので、ツイートの上限である140文字よりもさらに文字数は制限される。今回の場合は「82文字」です。その文字数で記事全体を要約するのは非常に難しい。

……っていうか、元ソースのリンクを貼っているので、あくまで「感想」の範囲としてかなり気を抜いて書いたツイートです。誰かに何かを主張しているわけでも無い。

それを「枝葉の部分が彼女のイデオロギーにとって、とても都合が良かったのでしょう」とか、勝手に内心を決めつけられてしまうのは、正直ムカッときます。

ともあれ、noteを書かれるそうなので、待ってみることにしました。

note.com

……おお、ちゃんと長文で書かれている。

ちょっと意外でした。

大体、こういう手合の方はツイートの短文で言うだけ言って、こうしてちゃんと長文で詳しく書いて下さることはないので。

……しかも、その短文に「違いますよ、こういう意味ですよ」と意見を言っても大体は無視されるし、そもそも私が書いていないことを勝手に読み取って酷い曲解を広められたりで……。

……もう、私は疲れきっていたので……。

詳しくは、こちらをご覧ください。

togetter.com

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そんなわけで、こうして長文を書いて意見を下さった柊万知さんに、心から敬意を評します。というか、普通に嬉しい。

こうして建設的な批判を頂けるのは、ありがたい。どこぞの誰かとは違って、私は意見を長文で頂いたら可能な限りしっかりと拝見したいと思っています。その方が自分の勉強にもなりますので。

(どうしても仕事が忙しいときや、膨大に来る通知を見落としていることもあるけれど、そのときはごめんなさい)

さて、noteの内容を拝見した上で、私の意見を述べます。

もっと大切なこと、読み取るべき要旨は他にあるのに、神崎さんが当該記事から受け取ったことはこれだったのです。

"相手を"不寛容な奴"と見なして「不寛容には不寛容でなければならない。それが『寛容のパラドックス』だ」と主張する人……をたまに見かけるけど、それは違うよね?という話"

(出典:寛容のパラドックスについて|柊 万知|note

"ポパーの主張した寛容のパラドックスは、プラトンが巧みに主張した主権のパラドックス(いかなる拘束的な統制もないという意味での自由は、あばれ者が従順な者を奴隷化することを自由にするので、非常に大きな束縛(=不寛容)に行き着かざるをえないという論証)に対する論理的な反証として用いられたもの。従ってポパー全体主義的傾向を批判したのであって、もしリベラル的全体主義ポパーの寛容のパラドックスを自己正当化のために持ち出すならば、それは誤りである"

おそらく神崎さんはこの部分に着目したのではないでしょうか。「リベラル的全体主義が寛容のパラドックスを利用すべきではない」この事は神崎さんの立場にとってとても都合が良かったのです。

(出典:寛容のパラドックスについて|柊 万知|note

「都合が良かったのです」という言い方は引っ掛かりますが、私がはるかかなたさんの文章を読んで「やっぱりそうだよね、分かる分かる!」と共感はしました。

実際のところ……。

私は今まで、相手にまず「あいつは差別主義者だ」とレッテルを貼り「差別主義者とは対話をしない、してはいけない」と拒否する方を何度も見てきて、その根拠として「不寛容には不寛容でなければならないからだ」と『寛容のパラドックス』が引き合いに出される場面も、何度も何度も見てきたので……。

やはり、その部分に思うところはあります。

また、柊万知さんは「もっと大切なこと、読み取るべき要旨は他にあるのに」と仰られていますが、ここで元記事の総まとめ部分を見てみましょう。

①寛容のパラドックスはあくまで論理的パラドックスの一例である。従って寛容の概念そのものから不寛容に対する不寛容の原則を論理的に導き出すことは誤りである(別の道徳的な基礎づけを必要とする)。

ポパーの主張した寛容のパラドックスは、プラトンが巧みに主張した主権のパラドックス(いかなる拘束的な統制もないという意味での自由は、あばれ者が従順な者を奴隷化することを自由にするので、非常に大きな束縛(=不寛容)に行き着かざるをえないという論証)に対する論理的な反証として用いられたもの。従ってポパー全体主義的傾向を批判したのであって、もしリベラル的全体主義ポパーの寛容のパラドックスを自己正当化のために持ち出すならば、それは誤りである。

ポパーは真に必要がある場合は不寛容な言論及びそれを生み出す運動に対する力づくの抑圧に正当性を与えた。従ってポパーはあらゆる言論の自由をいかなる場合も保護するべきであると主張したという解釈は誤りである。

出典:寛容のパラドックス~寛容さは不寛容さとどのように向き合うべきか?|はるかかなた|note

……はるかかなたさんが「寛容のパラドックスにおける誤解」を記事の最後にまとめた部分の「3項目のうちの1つ」について、82文字の制限でまとめて投稿したわけです。

これって、そこまでおかしなことでしょうか?

一応言っておくと、私が個人的に面白かったのは①です。

「寛容の概念そのものから不寛容に対する不寛容の原則を論理的に導き出すことは誤りである」ということは「たしかに!」と感銘を受けました。

ただ、私はそれを82文字で表現する技量を持たなかった。

同様に、この「寛容のパラドックスにおける誤解」の直前にはるかかなたさんが書かれている「これまでの検討を簡単に要約すると以下の通りです」の部分に関しても、私は82文字でまとめる技量を持っていなかった。

そのため「寛容のパラドックスにおける誤解」の②か③について端的に感想を書いてツイートすることにしたのです。なお、2つの中で②を選んだことに、そこまで深い意図はありません。

さて、その82文字の中身について。

"相手を"不寛容な奴"と見なして「不寛容には不寛容でなければならない。それが『寛容のパラドックス』だ」と主張する人……をたまに見かけるけど、それは違うよね?という話"

他者の言動を不寛容だと咎める事案が発生した場合にすべきことは、それ寛容のパラドックスと違うよね?という雑な否定ではありません。
まずはそれが寛容のパラドックスの適用外であるかどうかを見極めることです。即ち咎めている側の目的が「リベラル的全体主義による統一」であるかどうかです。
もしも上記に当てはまるのなら神崎さんの言う「違うよね?」はイエスです。
「リベラル的全体主義」に当たらなければ次に確かめることは、咎めている側と咎められている側の双方の間で「相互に寛容な対話」が行われたかどうかです。咎められている側が聞く耳を持ち、相手を尊重した寛容な対話に応じたかどうか。
この対話と理解があったのならその段階で寛容のパラドックスが適用される事はありませんので「違うよね?」はイエスです。
様々な事情によって対話と理解が不可能であった場合、次に確かめるべきは棲み分けがされたかどうか…咎めを受けた側が「否定しようとするもの」との関わりを自発的に断ち、批判を自重したかを確認する必要があります。
棲み分けがされているのであれば「違うよね?」はイエスです。
いずれの場合にも当てはまらないのならそれは最後の手段、つまり「寛容のパラドックス」が適用される例となります。「違うよね?」はノーです。
つまり神崎さんの仰る「違うよね?」の答えは、咎められた側(=不寛容)の出方次第です。「違うよね?」の答えとしてイエスを得る為には、あらかじめ決められた適用外の条件を、ひとつでもクリアしていなければいけません。
咎めた側がリベラル的全体主義ではない
・寛容な姿勢での対話と理解があった(咎められる側がそれに応じた)
・棲み分けの道を選択した(咎められる側がそれに応じるか自発的に選んだ)
どれにも当てはまらないものは自由を制限され拘束されます。それはあくまでも咎められる側の自己責任です。

(出典:寛容のパラドックスについて|柊 万知|note

おそらく、これは私のツイートの言葉不足が原因です。私が「違うよね?」と否定したのは「相手を"不寛容な奴"と見なすこと」ではありません。

私が「違うよね?」と否定したのは《(対話もなく一方的にいきなり)相手を"不寛容な奴"と見なして「不寛容には不寛容でなければならない。それが『寛容のパラドックス』だ」と主張すること(そして対話を拒否しながら非難すること)》です。

うん、やはり長文は良いですね。

これで意図が上手く伝われば良いな。

2. インターネットスラングについて

他に、柊万知さんはこのようなご指摘を下さりました。

いや、めっちゃ連投してくるな、この人!?

ただ、せっかくなので説明させていただきます。まず、私は「インターネットスラング」そのものを否定しているわけではありません。

私だって、いくつかインターネットスラングミームを楽しんで使うこともあるからね。「ググる」とか「微レ存」とか「やりらふぃー」とか。

私が批判しているのは「明確な定義が存在しないインターネットスラングが何かを批判・擁護するために濫用されること」です。変幻自在の曖昧で恣意的なレッテルとして、運用されてしまうから。実際、この辺りの言葉はいつも気を遣って書いています。

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私はジェンダークレーマーの定義』というnoteの導入部分でこのように書きました。

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 これまで、何かを批判または擁護するために新しい言葉が生み出されては、実質的な意味を失っていったばかりか、濫用までされてきた実情があります。

 例えば「性的消費」という言葉は、誰も明確に定義しなかったため、「性的で、嫌だと感じた表現」に都合よく当てはめられてきました。

 それで「無意味になったから、誰も使わなくなった」なら良いのですが、そのまま整理されずに「これは性的消費をしているから、悪い」などと都合よく濫用され、いくつかの表現が実際に消されました。

 「ジェンダークレーマー」という言葉が、同じ状況に陥り、とにかく気に入らないクレームをつけた人を誰でも攻撃できるようになってしまえば、問題ありと言わざるを得ません。

(出典:ジェンダークレーマーの定義|神崎ゆき|note

「神崎さん達が作った造語」と柊万知さんは仰っていますが……。

これも厳密には違います。私は用語の提唱者ではありません。『ジェンダークレーマー』は、2022年2月1日に魔法少女天路めあさんが提唱されました。

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これは素直に白状しますが……私は最初、何の気無しにこの「ジェンダークレーマー」という言葉を使いました。そのときの対象を「フェミニスト」と称するのは不適当かなと思ったので、その代替として。これが2022年2月6日のこと。

そしたら、私のツイートが「想像を超えて急速に広まってしまった」ので「ヤバい、このままだと定義が曖昧なインターネットスラングになってしまう! レッテルとして運用されてしまう危険がある!」と焦って、慌てて天路めあさんに「きちんと定義をすり合わせましょう」とお声をかけた、という流れ。これが2022年2月8日。

そこから2ヶ月ほどかけて、他に協力者3名を含めて合計5名で議論を交わして定義をすり合わせて、その定義に合わせて私がnoteを書いて2022年4月6日に公開した、という形になります。

私が「性的消費」という言葉を批判する本質は「誰もその言葉のコントロールを試みようとしなかったこと」にあります。

むしろ、私自身は一度「性的消費」の定義を試みようとしたのですが、全然上手くいきませんでした……。

「性的消費」の論点リスト

  1. そもそも性的消費は悪なのか
  2. 悪ならば、その理由
  3. 悪ならば、性的でない消費行動は悪か
  4. 性的の基準は何か
  5. 二次元と三次元で基準は異なるか
  6. 性的に該当する具体例を数点
  7. 性的に該当しない具体例を数点
  8. 基準は消費対象の性別によって変わるか
  9. 基準は消費者の性別によって変わるか
  10. 上記①〜⑨を踏まえて、性的消費とは何か

そういう経緯があったので「明確な定義が存在しないインターネットスラングが何かを批判・擁護するために濫用されること」に私は警戒心を持っていた。

なので、noteの意図としてはむしろ『ジェンダークレーマー』という用語が、明確な定義が存在しないインターネットスラングとなってしまい、何かを批判・擁護するために濫用されることを「防ぐ」ことにあります。

もちろん、SNSの全ての人の動向をコントロールできるわけもありませんが、それでも言葉が「レッテル」となることを防ぐために、自分ができることはやっておきたかった。

……そうですね、このブログを書いていて思ったのですが、ジェンダークレーマーの定義もようやく書き終えて公開できたので、この際もう1度この「性的消費の論点リスト」を投稿して問いかけてみるのもいいかもしれません。